2014年1月30日木曜日

卒業研究発表会

こんにちは。今年度は、芸術表象専攻から初めての卒業生がでます。
卒業のために約1年ほど、ゼミで研究や制作をおこなって来ました。その成果を1月21日に発表しましたので、その様子を少しご報告したいと思います。

芸術表象専攻の2人先生方、北澤憲昭先生と杉田敦先生のゼミにそれぞれ分かれて、「卒業研究」として研究や制作をおこなってきました。


 ▲会場はこんな感じでした。

▲学生の発表1

 ▲学生の発表2

全15名による学生の研究発表をおこないました。
発表の最後には、2人の先生方からコメントを頂きました。

▲北澤先生

▲杉田先生


発表会前日にリハーサルをおこなったり、当日のぎりぎりまで調整している学生もいました。学生たちはとても緊張していたようですが、立派に発表しました。

今後は、次の展覧会を控えています。

●女子美スタイル2013「超少女」(東京都美術館、3月2日、4日〜8日)※選抜された学生の展示です。
●卒業制作展(女子美術大学相模原キャンパス、1号館5階、12号館1214教室、3月13日、15〜16日)
●女子美術大学芸術表象専攻卒業制作展2013 “疑い・調査・実践”(BankART studio NYK 3Cギャラリー、3月19日〜23日)

学生たちの成果を、ぜひ見に来てください。
詳しいことは、女子美のHPをご覧下さい。

女子美術大学
http://www.joshibi.ac.jp


それでは。

2014年1月29日水曜日

芸術表象論特講#18

こんにちは。今年になってからまだ1ヶ月、たっていないんですね。
1月15日におこなわれました、「芸術表象論特講」18回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、美術史家の金惠信さんでした。



金さんは2010年におこなわれました、女子美術大学創立110周年記念事業シンポジウム「現代アジアの女性作家」にて講演されたことがあります。
今回は、「社会と歴史を着こなして、見せるーーイ・ブルの韓国近現代史ルーム」というテーマでお話ししてくださいました。

近年、冬のソナタや東方神起、BIG BANGといったやドラマ(俳優を含む)やK-Popなどのカルチャー面が数多く見受けられます。例えば、ガールズグループの「少女時代」は、女性達が世の中を治める時代が来たという意味合いで命名されたそうです。彼女達のすらりと伸びた長く奇麗な足は、デビュー当初CGではないかと言われたほどでした。
韓国でセンセーショナルを引き起こした「少女時代」ですが、彼女達のように韓国の美術界にセンセーショナルを引き起こし、現在は確固たる地位を確立した女性アーティストに、「イ・ブル」がいます。
昨年、森美術館にて「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに―アジアを代表する韓国女性アーティスト、初の大規模個展―」として展覧会が開催されました。この展覧会を中心に、イ・ブルというアーティストと韓国の現代における美術について見ていきました。

イ・ブルは1964年生まれでソウル在住、弘益(ホンイク)大学で彫刻を専攻しました。弘益大学は韓国の美術界を二分する大学のひとつで、もうひとつはソウル大学なのだそうです。韓国の美術界が嫌でもイ・ブルの名前に目を向けなければならなくなったきっかけは、1989年に発表した舞台パフォーマンス《堕胎》でした。これは、裸体のイ・ブルが天井から足を上に、頭を下にした状態で吊るされ続けるパフォーマンスで、あまりの衝撃で泣き出す人がでたりし、鑑賞者たちが見かねて彼女に近寄り紐を解いたという。妊娠と出産の最適齢期に裸体をさらけ出すことで、人間を生むことの行為を、彼女のやり方で表現したそうです。イ・ブルはこの作品以降、女性の身体につきまとう決まりを捨てるかのような行為を作品にしていったそうです。

イ・ブルが活動を始めた1987年頃、韓国では民衆美術などが台頭していたそうです。これには、当時の時代の流れが大きく関係しています。
1979年に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が暗殺され、軍事政権がしばらく続きました。1980年に入ると、民主化抗争がおこり、国内では学生運動やデモなどの激しい活動がみられるようになりました。
この頃、美術界はモノクロ絵画に代表され、抽象傾向がマンネリ化し前衛さが失われていきました。さらに、現実に目を向けて発言するリアリズムを取り戻す動きや、民衆美術が台頭してきました。金さんは、この時に大学生だったそうで、当時先生から民衆美術は怪しい美術だと教えられたそうです。
そして美術は、学生運動や民衆の運動の際に、大事な役割を果たします。運動に関係するメッセージ性のある絵画などを制作し掲げることで、運動に参加している人たちには一種の高揚感が生まれたそうです。制作する側も、完成度や芸術性は別とすることや、描きがいがある題材ということもあり、熱が入っていたのでしょう。一見すると政治とは無関係なところで、美術界の人々は燃えていました。
1987年に延世大学の学生が催涙弾の破片にあたり亡くなる事件がおきました。倒れた学生を抱える別の学生の姿を写した写真がロイター通信に掲載され、それをアーティストがが版画にして配布したそうです。また、追悼集会では、彼のことを描いた大きな絵を掲げました。

このような時代を経て1990年代に入ると、女性のアーティストが美術界へ進出し始めました。イ・ブルもこの時期に出てきます。
先述した舞台フォーマンス後、《受難遺憾ー私をピクニック(散歩)に出た子犬だと思うの?》(1990)を発表します。これは、ソフト・スカルプチャーによるなぞの生物を着たイ・ブルが、街をうろつく映像でした。その中で金さんは、今、韓国の美術界で問題となっている作品、イム・オクサン《ひとつになるために》(1989)を引き合いにしました。この《ひとつになるために》は、民衆美術の代表的な作品であり、朝鮮半島を韓国と北朝鮮に分断している38度線を軽々と越える反体制でクリスチャンの牧師を描いた、民衆同士の付き合い方を問う作品です。しかし北と南の境界を曖昧にしているということで、展示を拒否されたそうです。イ・ブルの作品にも、少し異なるかもしれないけれど境界を越えるというようなジェンダー性が表れている。女性アーティストはこれからのジェンダー拡張社会でどうやって注目されるかが大事であるが、金サンは、イ・ブルがこれから何処へ行くのか心配になってしまったそうです。

1997年に本物の魚をかんざしなどで飾り付けた《壮麗な輝き》を発表。この後、壁に突き当たります。
しかし翌年、《Monster》と《Cyborg》シリーズを発表。これは、スパーヒューマンパワーとテクノロジー、少女の弱さと美しさを備え、男性の性的欲望を満たしている様に見えて裏切るような作品です。アニメーションにある女性の戦士のキャラクターからのイメージも入っているようです。イ・ブルといえばこの作品と言われるほどの代表作となりました。そして1999年、ヴェネチィア・ビエンナーレの韓国代表となり、特別賞を受けました。こうして、イ・ブルは韓国美術界だけではなく、世界における美術界でも確固たる地位を確立しました。

2007年に発表した《雪解け(高木正雄)》は、薄いピンク色の氷の中に、韓国の大統領であったパク・チョンヒが横たわっている作品です。「高木正雄」とは、日本統治時代に、パク元大統領が名乗っていた日本名だそうです。

森美術館の最後の展示室にあった《秘密を共有するもの》(2012)は、イ・ブルが飼っていた犬がモチーフとなっています。イ・ブルは、朝起きてからコーヒーを飲みながらドローイングをするのが日課で、飼っている犬が外を眺める姿を見ることが多かったそうです。犬は年老いているためか、消化が悪く、草を食べては吐き出すという行為をしていたそうです。若い頃は成長するために食べる行為をするが、年老いてからは生きる為に食べた物を吐き出す行為をする。これが作品となったそうです。

国が違うと、作品の背景にあるものも違ってきます。韓国は近い国のはずですが、私達は知らないことが多すぎるような気がしました。学生たちには、作品だけを見て何かを感じるのもいいですが、そのアーティストが背負っているものに寄り添う必要も大切であることを、感じてもらえたのではないでしょうか。


それでは。

2014年1月16日木曜日

芸術表象論特講#17

あけましておめでとうございます。本年も、よろしくお願い申し上げます。
1月8日におこなわれました、「芸術表象論特講」17回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストの福士朋子先生でした。


福士先生は、女子美で学んだ後、東京芸術大学大学院へ進学。修士号を取得後にペンシルヴァニア・アカデミー・オブ・ザ・ファインアーツ大学にて修士号を取得。帰国し東京芸術大学大学院にて博士号を取得されました。現在女子美の洋画専攻で教鞭をとっています。

福士先生は、ホワイトボードに油性マジックで描くスタイルで、マンガのコマ割りや言葉を用いた作品を制作しています。しかし、この作風はここ78年くらいのことだそうで、20年の間に作風は何度か変わっているそうです。学生の頃は、スタイルを早く確立して世の中に出なくてはと焦っていたとおっしゃっていました。

日本で学んだ後、アメリカの大学へ進学したときに、大きなショックを受けたそうです。それまでは作品を見せれば何か反応があると思っていたし、そういう美術の教育を受けてきていた。今は講評会で作品のプレゼンをしなくてはならないけれど、福士先生が学生の頃は、作品を並べて先生方がそれを見て、自分からは何も言えないまま先生からの言葉を聞くという状態だったそうです。
しかしアメリカへ行ったら、自分の作品が目の前になくても、自分の作品のことについて話さなくはならない。いきなり言葉で作品を説明しなければならないことになった、とガラッと状況が変わったそうです。

それだけではなく、自分が学んできたことことの多くが西洋の影響を受けていると感じたり、オリジナリティとは一体何なのかということも、突きつけられたそうです。
アメリカの大学では授業にディスカッションがあり、自分がどのような意図で作品を制作しているのかということを言葉にしなくてはならなかったり、学部生でも必ず論文を書く指導を受けているので、言葉がわからないために理解できないことも多かった2年間だったと言います。しかし、周囲の人たちに手伝ってもらいながらも論文をなんとか書き上げたそうです。

帰国の後、芸大大学院の時の先生に会い、博士課程でもう一度論文を書かないかと勧められたそうです。アメリカで受けてきた勉強が何か形にならないか、博士課程に進学することで何か掴めるのではないか、そういう時間を得られるのであればということで30歳を過ぎてから、日本で再び学生になりました。

福士先生の作品について、執筆された博士論文(「境域をうつす絵画:《絵画–マンガ》往還による多視点・意識・身体の考察」)に依りながら、お話していただきました。

美術界で最初にマンガをアート作品に取り入れたのは、ロイ・リキテンシュタインと言われています。論文では、本当にリキテンシュタインが最初なのかを疑うところから始まっているそうです。リキテンシュタインの作品をはじめ、マンガ的な要素を取り入れたように見える作品の多くはマンガのある一コマを拡大するなどしており、マンガの表面的なイメージを取り入れているだけなのではないか。もしかしたら、マンガの文法や構造そのものを取り入れている作品はないのではないか、と論じ、しかし文法や構造を絵画に取り入れるのは難しいだろうと、結論づけていたそうです。
論文を執筆した頃はそういうことを考えていたそうですが、その後、コマ割りの手法を取り入れて作品を制作するようになったそうです。

そもそも「マンガ」とは、「1, 単純化、誇張化した絵、2, 連続した絵(コマ)で、セリフ、言葉と共に表現した物語」と定義付けられており、普段かなり曖昧に使われていることがわかります。
絵画とマンガは何が違うのか。絵画は、ぱっと見て一枚で理解出来るようになっている「現示性」であり、マンガは「現示性」と「線条性」の組み合わせ、コマで繋がっており絵を見て言葉を読んで時間の流れを体験するメディアだそうです。(呉智英『現代マンガの全体像』(情報センター出版局、1986年、現在は双葉社より文庫化されています。)より。)

福士先生は、もともとマンガ家になりたかったそうですが、高校を卒業するまでにデビュー出来なかったら諦めることにしていたそうです。大学では絵画を勉強しようとリセットしたかたちで進学しました。しかし、デビュー出来なかったからとはいえ、今まで通りマンガを読み、描くことをしてしまう・・・。実際に1995年から「Faxマンガ」と名付けて、マンガを執筆しては、親しい知人にFaxで送っていたそうです。マンガとは別に、メディアとしてのFaxに興味があり、Faxギャラリーなどが出来ないかとも考えていたそうです。下書きもしないで定規も使わない20コマのマンガだったそうです。

ただ、絵画の個展をおこなっている時はマンガを描いていることは隠し、絵画とマンガを同じ空間で見せることはなかったそうです。

そこに福士先生自身にとって何か大事な問題が潜んでいるのでは、と指摘されたのが、女子美の芸術表象専攻の杉田先生でした。

そして杉田先生のオルタナティヴアートスペースart & riverbankでの、絵画作品とマンガ作品を並列して展示をした「近くの現象学」という実験的な個展につながりました。その頃は、博士論文を執筆したばかりでもあったそうです。この展示を終えてから、まだマンガの構造を作品に取り入れることは難しいと思っていたため、現在の作風に近づくにはそれから3年ほどかかったそうです。

マンガの構造を取り入れた、ホワイトボートに描く作品は、これまで取り扱ってきたギャラリーでの発表は難しいと考え、どこに持って行ったらいいのか・・・・と悩んでいたときに、スパイラルの公募展「SICF12」に出品し、グランプリを獲得します。その直後のスパイラルショーケースでの個展でも、絵画として見てもらえるか疑問だったそうです。また、マグネットを使用したため、お客さんが勝手に触ってしまい、「触らないでください」と掲示しても勝手に触られてしまったそうです。マグネットは「矢」の形をしていたので、大人でもダーツのように投げ、子供はマグネットシートをはがして遊ぼうとしていたようですが、そこから、作品を見ることと触ることを考えると面白いと思い、今でも考え続けているテーマでもあるとのことです。


福士先生の作品は、言葉から考えて組み立てていく作品が多いそうです。これからは、言葉と美術や絵画との関係について考えて制作していきたいと思っているそうです。

後半は、北澤先生とのトークや、学生からの質問にも答えていただきました。



なぜなのか、これでいいのかと疑問に思いながら制作してゆくことは、簡単なようで難しいことです。そして良いものはそう簡単には出てこないものです。学生たちは、模索していくことの重要さを気づかされたのではないでしょうか。


福士先生の作品はこちらから見ることができます。「ラッキーちゃん」のマンガも見れます。

2013年の『美術手帖』に収録されている「ART NAVI」6~9月号の表紙を担当されていました。バンクナンバーをぜひ見てみてください。


それでは。