2014年10月24日金曜日

女子美祭2014開催!!

こんにちは。雨が降り続いていたのが、やっと晴れました。
今日から、女子美祭が始まりました。

少しだけですが、芸術表象専攻の展示を紹介したいと思います。

2年生
フェチシズムをテーマにした展示とワークショップをおこなっています。

 ▲場所は5階の奥。この先の教室です。
 ▲この教室です。
    ▲手前と奥で違います。奥ではワークショップをおこなえます。

▲1号館エレベーター内も担当しました。


3年生
現在開催中の「ヨコハマトリエンナーレ」のテーマを、芸術表象仕様に変えて共同で作品を制作しました。ワークショップもおこなっています。


 ▲場所は12号館1階、1214教室です。新聞紙で作られた
葉っぱが目印。


▲メインはこれです。写っていませんが、手前にはワー
クショップをおこなう場所もあります。


今年度より、芸術文化専攻の1年生が入学しました。彼女達の展示も紹介します。

 ▲場所は10号館2階の1021教室。2号館2階からの渡り廊
下のすぐ先にあります。
  ▲展示は、授業で学んだ現代アートの作家や作品を中心に、
   英語によるクイズと、すごろくを体験することが出来ます。


詳しくは、実際に見に来て体験してください。
それと、芸術表象専攻で担当している「アートプラクティスⅡC」の作品展示もおこなっています。10号館3階にありますので、探してみてください!!


明日からは、オープンキャンパスも兼ねていますので、受験を考えている高校生のみなさんは、是非いらしてください。

女子美祭2014 
場所:女子美術大学 相模原キャンパス(杉並キャンパスでも同時開催)
日時:2014年10月24〜26日 10時〜17時
※詳細はHPをご確認ください
http://joshibisai2014.info/index.htm(相模原キャンパス)
http://joshibifes2014.boo.jp(杉並キャンパス)

同時開催のオープンキャンパスは時間が10時〜16時までと異なりますのでご注意ください。
http://www.joshibi.net/oc_festival2014/

それでは。

2014年10月15日水曜日

芸術表象論特講#17

こんにちは。台風がさって少し暑いかなと思ったら、肌寒く、何を着たらいいのかわからなくなります。
10月1日におこなわれました、「芸術表象論特講」17回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、アーティストの白川昌生さんでした。



白川さんには、昨年11月にもこの授業でレクチャーしていただきました。その時はご自身のこれまでのことを中心にお話ししてくださいました。そのことも、このブログに掲載させていただきました。
今回のレクチャーでは、今年の3月15日から6月15日まで群馬県のアーツ前橋で開催された「白川昌生 ダダ、ダダ、ダ 地域に生きる想像☆の力」を中心にお話していただきました。

アーツ前橋は昨年オープンしたアートスペースです。美術館とほぼ同じ機能を持っていますが、美術館とは呼ばずに“アートスペース”としています。これには、前橋市の政治的な問題が絡んでいるそうです。
現代美術というと、一般の人にはわかりにくいと思われています。そのため、市の建物で展示することが税金の無駄遣いだと思っている人もいるそうです。なので、年間で何人の入場者がいたかという数字の問題はついてまわります。使用している建物は、かつて西武デパートだった別館を利用しています。これは、20年程前に西武が撤退してから何もテナントが入らず空のままだったのを、前橋市が買い上げて文化施設へしました。建物は本館と別館があり、本館の地下は地域のスーパーに貸し、2階を図書館と公民館に、他の階は地域にある医療系専門学校へ貸出しました。別館は長らく手付かずでいましたが、それをアートスペースとして再利用することになります。内装のデザインコンペはもともと内々でおこなうところを、現在のアーツ前橋の館長になる方や他の方々からの意見によって、公開となったそうです。
年に2回、春に作家の個展、秋にグループ展を開催し、その間はワークショップなどをおこなうことになっています。収蔵作品もあり、地域で住んでいる作家の絵画作品を中心としているそうです。

実際に白川さんの展示の写真を見せていただきながら、作品の解説なども交えてお話ししてくださいました。

白川さんは、アートの役割を次のように語っていました。
人間の記憶というものは、モノや言葉というのがないと残らないので、その役割のひとつとしてアートがある、そういう働きが出来るのではないかと思っている。絵を描いたり彫刻したりということも、もちろん造形的な味もあるけれど、何か感覚的な、そういうものを残す為の手段として作っている。人間は何も対象がない状態では、記憶を呼び戻したりすることはできないんじゃないか。だからモノがあることで初めて過去が蘇ったりする。例えばマルセル・プルーストではないが、マドレーヌを口にいれたらその味とともに自分の小さい時の思い出が蘇るではないけれど、それはモノがないと蘇らないってことでもある。記憶は忘却と隣り合わせだから、そういうことがなければ蘇ってこないと思う。美術作品の役割はある種、そういうところがあると思っている。絵画でもなんでもいいけれど、見て初めて喚起される、見なければ喚起されない。そいうモノとしてのアートというものはあると思います。
また記憶ということについて、征服する人や支配者というのは、そういうことをよく知っているから、弱い人の心の支えになるような、例えば思い出の家や写真とかそういうモノを取り上げて破壊する。そうするとで、その人にとっての記憶や過去が無くなってしまい、思い出そうとしてもリアルな形で蘇ってはこない。思い出そうとしても、ぼわーっと何かがあるけれど、リアルな形で蘇らせるにはやはりマテリアルなモノが必要になってくる。それを奪ってしまうというのは暴力だけど、戦争は相手の国を殲滅させようとすることだから。その殲滅させてしまうということは、相手の国にある記憶みたいなものをみんな消してしまうということなのではないか、とおっしゃっていました。

今までの作品の中から、いくつかピックアップしていただいて、解説していただきました。写真だけではなく、映像もいくつか見せていただきました。

今の時代、絵画とか彫刻とか数千年前から続いている古いメディアもあり、それは無くならないで、これから先も絵画とか彫刻とかは続いていくのだと思います。その他の新しい様々なメディアは時代とともに増えていき、それを今に生きている人たちは同時に使っていく。今の若い人たちには、こだわらずに有能なメディアで表現してゆけば良いのではないかと思います。というようなことを、白川さんは学生たちにおっしゃってくださいました。

白川さんの作品は、自分が住んでいる場所と自分自身のこと、その場所に住んでいる人々。群馬という場所とそこに住む自分を含めた人々との関わりが作品になっています。そして、白川さんの作品を見ることで、通りすぎて行ってしまう人が地元の記憶を呼び覚ます。その場所で活動する意義はここにもあるのではないでしょうか。学生たちは、アート作品を制作することとは何かを、考えるきっかけになったのではないでしょうか。


アーツ前橋のHPはこちら



それでは。

芸術表象論特講#16

こんにちは。台風が2つも続けてやって来て、驚きです。
9月24日におこなわれました、「芸術表象論特講」16回目のレクチャーについて少し報告したいと思います。
今回のゲストは、美術・映画評論家の西村智弘さんでした。



西村さんは、映像や現代美術の評論を執筆されています。最近は、アニメーションの論文を執筆されたりしているそうです。
今回のレクチャーでは、「日本におけるアニメーションの概念」というテーマでお話してくださいました。
現在では当たり前のように使っている「アニメーション」という言葉ですが、日本で使われるようになったのは、おおよそ1960年代以降からでした。では、それ以前にアニメーションがなかったのかというと、そういうことではなく、アニメーションに該当する作品は存在しました。呼び方も別の言葉を使用していたのですが、アニメーションという言葉が使われないということは、その概念がないのと同じことです。
つまり簡単に言ってしまえば、戦前と戦後では価値観が違っているということなのです。

1960年代、アニメーションという言葉が使われだしたとき、それは何を指していたのか。森卓也『アニメーション入門』(1966)では、アニメーションとはコマ撮りによって作られた映画であると規定されています。それがこの時代に定着したアニメーションの概念でした。

そもそも、アニメーションはいつからあるのでしょうか。これには2つの考え方があるそうです。
ひとつは、エミール・レイノー「テアトル・オプティーク」(フランス、1882)からとする考え方と、もうひとつはスチュワート・ブラックトン「愉快な百面相」(アメリカ、1906)からとする考え方です。エミール・レイノーからとすると、アニメーションは映画よりも早く誕生したことになります(映画は、リミュエール兄弟が1885年に発明しました)。となると、スチュワート・ブラックトンが最初という捉え方になりますが・・・。この「愉快な百面相」は1907年に日本へ「奇妙なるボールト」というタイトルで入ってきました。日本はかなり早い時期、ほとんど同時代的に欧米のアニメーションが入ってきます。
初期のアニメーションは、舞台上で実際に絵を描いていく「ライトニング・スケッチ」の延長からきており、スチュワートが実際にトーマス・エジソンの似顔絵をスケッチしている映像を見せていただきました。
「愉快な百面相」は、黒板にチョークで描いているのをコマ撮りしたものです。切り絵なども用いて、動きをつけました。
漫画絵のようなアニメーションよりも先に、実写によるアニメーションの方がさかんに公開されていました。漫画のアニメーションで日本に最初に入ってきたのは、エミール・コール「The Musical Maniacs」(フランス、1910)でした。この作品は「凸坊新画帖」というタイトルで公開されました。ちなみに、タイトルは内容と関係ないそうです。その後に公開されたC・アームストロング「Isn't Wonderful?」(アメリカ、1914)も「凸坊の新画帖」というタイトルで、漫画アニメを公開する際にこのタイトルで公開することが一般化してしまったそうです。一度話題になると、同じ名前を使ったりする発想からきているようですが、制作された国や作家が違っていても全て同じタイトルなので、区別をつけるときは、サブタイトルに例えば「悪戯小僧の巻」と入れて変化を付けていました。「凸坊」とか「新画帖」だけでも漫画アニメであるということになり、また当時は漫画と言えば喜劇ものだったので線画喜劇とも言ったそうです。
他に、人形映画というのもありました。1930年に公開されたラディスラス・スタレビッチ「魔法の時計」(フランス、1930年)は、当時評判になった人形映画です。この作家の「カメラマンの逆襲」という作品を実際に見せていただきました。ラディスラス・スタレビッチが手掛ける映像に出演しているのは虫ですが、社会風刺の作品も多かったそうです。手法としては現代で言うクレイアニメに似ている気がしました。

戦前の日本には、漫画によるアニメーションが凸坊新画帖、線画、線画トリック、線画喜劇、線画映画、漫画映画、などと呼ばれ、影絵映画、人形映画、絶対映画といったジャンルもありました。アニメーションという言葉では括られていませんが、見る側にとって何が見えているかということで分けられていたようです。そして1960年代になると、コマ撮りで制作しているものをアニメーションと見なす発想が定着します。
現在はアニメーションの概念が崩れている時代で、特に1990年代以降の技術面の向上や進歩によって広がりをみせていて、それまでの概念は通用しなくなっています。いったん崩れてしまったものが元に戻ることはなく、今後アニメーションを規定することはますます難しくなってきていると、西村さんはおっしゃっていました。そうした今は、戦前のアニメーションに対する見方を改めて注目する価値があるのではないか。技法だけで区別できなくなってきているアニメーションは、どういう風に見えているのかということ自体を問題にせざるをえなくなってきている。戦前はアニメーションの概念が確立する前であって、見る側にとってどのように見えているかが問題だった。1960年代以降は、制作技術に重点を置いてアニメーションが概念化されたが、技術の進歩により制作の幅が広がっていった90年代以降は、いったん確立されたアニメーションの概念が解体される状態になっているので、むしろ戦前に近づいているのではないかともおっしゃっていました。
結局のところ、技術面に重点を置く戦後のアニメーションの捉え方は、作り手の視点に立つものです。実際に作品を見る一般のレベルで言えば、その作品がどのように作られているかは二次的な問題であって、その作品が面白いか面白くないかの方に関心があるわけであり、どのように作られているかは気にしないのが普通のことだともおっしゃっていました。


今日、当たり前のように使っている「アニメーション」という言葉ですが、何がそうで何がそうではないということは、あまり深く考えないで言っていることに気がつきました。戦前の様々な言い方について、貴重な作例を見せていただきながら、西村さんに解説していただきました。大きく言えば映像の技術、CGの技術の進歩の目覚ましさが近年見受けられて、誰でも簡単に作れるようになってきていることは、作り手と受け手側の境界をあいまいにしているのでは・・・。美術大学で学ぶ学生としては、そういうことも考えられたのではないでしょうか。

西村さんのHPはこちら

西村さんの著作もチェックしてみてください。
『スーパー・アヴァンギャルド映像術ー個人映画からメディア・アートまで』(共著)
『日本芸術写真史ー浮世絵からデジカメまで』


それでは。