2015年6月15日月曜日

芸術表象論特講 #3

H27 芸術表象論特講 #3

520日に行われた第3回のゲストはミュージシャンの高野寛さんです。




高野さんはシンガー・ソングライターとして1988年にソロデビュー。「虹の都へ」や「ベステンダンク」などのヒット曲をはじめ、これまでにアルバムも数多く出されています。ギタリストとしてThe Beatniks(高橋幸宏+鈴木慶一)、坂本龍一、細野晴臣、星野源などのツアーやライブでの数々のセッション、また他のアーティストへの詩・楽曲提供やプロデュースなど、幅広い活動をされています。近年ではサントリー「グリーンダカラちゃん」のCMで歌を担当されており、年代の差を超えて馴染みのある学生も多いと思います。

幼少の頃に1年間オルガン教室に通っていたという高野さんは、演奏は苦手ながらも和音の聞き取りだけは百発百中だったそうです。その後、機械弄りが好きだったこともあり、電子楽器などを作るエンジニアになりたいと考えて大阪芸大の芸術計画学部に入学したものの、既に自主的に宅録(自宅でレコーディングすること)をおこなっていたため、音響の授業で直接習ったことよりも、映像の授業で観た実験映像や造形の授業で絵を描いたこと、そして大学で知り合った友人から教えてもらった面白い曲などが自分の世界を拡げる糧となったそうです。そして、在学中にあるオーディションへ送った自分の曲が賞を取ったことがデビューへのきっかけに繋がったと話されていました。

「きちんとした音楽教育を受けていない自分がこれまでに十数枚アルバムを出してきたが、教える立場になって初めて自分がいかに感覚的に詩や音楽を作ってきたかということに気付かされた」という高野さんは、京都精華大学で2013年に開設されたポピュラーカルチャー学部では特任教授としてソングライティング(作詞・作曲)を教えられています。


今回のレクチャーでは、まず作詞・作曲についてお話して頂きました。(諸説ありますが)人間の脳の働きを大きく左脳と右脳に分かれていると仮定すると、作詞作曲などの制作活動においては、分析・構築・理論・体系などが左脳的な働きであり、クラシック・ジャズでは左脳的な理解力が重要視されているそうです。また逆に直観的な知覚・感動・気分の高揚などの要素は右脳的な働きであり、いわばアーティストの中には「職人(左脳)」と「芸術家(右脳)」が同居している、と解説されています。

「現代のクリエイターは、左脳的な道具(コンピューター)で右脳的なものをつくるという、難しいことをやっているのです。」

高野さんは、当初は感覚の中から拾い上げる右脳的なタイプでやって来られたそうです。しかし創作を続けると、右脳的なひらめきだけでは越えられない壁にぶつかり、長い間続けている多くのアーティストと同様に、研究し体験や経験を通じて自分なりの蓄積を重ねてきたとのことでした。中でも、かつて高野さんが矢野顕子さんから聴いたという次のような話が印象的でした。
 細野晴臣さんに「どうやって(音楽)を作っているんですか?」と聞くと、「いや、もう直観で…」と答えるのだけれど、実際はその直観の裏には膨大な知識と経験があって、その引き出しの中から何を選ぶかという過程がある。もし引き出しが空っぽでは何も選べないし、知識や分析力が充実していないと直観をうまく働かせることは出来ない。
これは今でも高野さんの教訓として刻まれているそうで、どちらか片方だけでなく右脳側と左脳側の2つのバランスを上手く取って、制作していくことが重要と話されていました。ただ、直観や感覚などの「右脳的なこと」を感じる感性はメソッドとして教えることは難しく、自分で身に付けるしかないと高野さんは仰っていました。


どんなアーティストも、作品の手前には膨大な引き出しやアイデアが眠っていて、その引き出しがなければ作品まではたどり着けない。メモの段階では完成している必要はなく、人に見せる必要もなくて、ただ自分だけのもの。けれど、メモが沢山あることでそこから構築することが出来るそうです。レクチャーの中盤では、こうした直観や感覚的なものを培うためのアドバイスやコツについて話して頂きました。

「とにかくメモすることの大切さ、そしてそれを整理すること」
(「引き出し」を充実させる。引き出しの中身を整理する)
「また、時には気分を変えて体を動かすことや、自己評価の基準をつくることが大事」

恋愛や失恋も含めて色々な体験をすること、トラウマやコンプレックスをボジティブなエネルギーに転化して作品にぶつけてみること、また友達が少ないことは悪いことではなく一人の世界を繰り下げる時間が沢山あるということ、そしてこうした一人の時間を持つことの重要性についても述べられていました。(実は高野さんも昔は極度の人見知りだったそうです)


レクチャーの後半では、趣向を変えて高野さんのInstagramと、昨年に出されたアルバム「TRIO」のレコーディングで滞在したリオ・デ・ジャネイロで撮影した写真や、スタジオでの映像などを紹介しながら、現地のことやレコーディングについて解説して頂きました。
デビュー25周年記念アルバム「TRIO」のジャケットにも使われた写真
リオ・デ・ジャネイロに着いた当日に、自炊をしていたアパートの窓から撮った景色が素晴らしく、初日にアルバムのジャケットが決まったと話されていました。ブラジルへ滞在している間、高野さんは毎日写真を撮っていたそうで、写真集として出せないかと知り合いの本屋さんに相談した結果、フォトエッセイ『RIO』として出版されています。


現地でのレコーディングの風景
今のレコーディングはPhotoshopのレイヤーのように一つ一つ音を重ねながら作ることが多く、高野さんはこうしてギターを弾いて歌いながらバンドと一緒にレコーディングを行うのは生まれて初めてだったそうです。


この他にも、レクチャーでは様々なことについてお話して頂きました。音楽と美術という同じ芸術の中での分野の違いはあれども、制作の際に必要となる共通する要素、特に学校や大学で教える・教わることが難しい感覚などの「右脳的なもの」について、分かりやすくアドバイスや説明をして頂く機会は、学生にとって今後とても役立つ内容だったと思います。また、こうした前半の内容を踏まえて、後半に紹介頂いたリオ・デ・ジャネイロでの写真と映像では高野さんが持っている右脳的なもの・感覚的なものについて、実際に触れることが出来たと感じました。


レクチャーの中で紹介された高野さんのフォトエッセイ集
『RIO(リオ)』についてはこちら http://www.haas.jp/release.html#book
高野寛さんのInstagramはこちら  https://instagram.com/takano_hiroshi/

2015年6月1日月曜日

芸術表象論特講 #2

平成27年度 芸術表象論特講 #2


5月13日に行われた第2回のゲストは舞台美術家の土屋茂昭さんです。
土屋さんは21歳で劇団四季美術部に入り、1983年から劇団四季美術部長(チーフデザイナー)を務め、「CATS」をはじめとした数々のミュージカル、芝居、オペラの舞台美術デザインを手がけています。





 今回のレクチャーでは、これまで土屋さんが舞台美術を手掛けた作品の中から「EVITA」「南十字星」「鹿鳴館」「正岡子規」「誓いのコイン」などについて、実際の映像やスライドを交えながら解説して頂きました。冒頭で「舞台美術家が100人いるならば、100人それぞれ舞台美術への考えが違う」と述べた上で、土屋さんは「空間、時間、人間。その間を貫くのがドラマであり、そのドラマに寄り添い包むのが、舞台美術の役割」という位置付けで舞台美術を考えているそうです。また、「舞台美術は必ず演劇的な造形性(演劇的に何が必要か)から発想を立ち上げ、美術造形性のみからスタートすることはない。そして舞台に現れたものは美しくあるべき」と述べられています。



 アルゼンチンで女優から大統領夫人へとのぼりつめたエバ・ペロンの生涯を描いたミュージカル「EVITA」は、アンドリュー・ロイド=ウェバーが作曲を手掛けたことでも有名です。これまでに多くの国で上演され、舞台美術・装置も様々な舞台美術家によって手掛けられてきました。土屋さんはこの作品の「娼婦の子から大統領夫人へ偏見と戦いながら登り詰めて行く人生」「閉鎖的な社会」「運命と人生が回転していく物語」「人生を叙事詩的に描く言葉と音楽」といった内容から、「壁面にレリーフとして刻まれる人生の場面」「螺旋に回転する床と分割合体する壁」「透明で華やかな光のリング」という舞台美術のデザインイメージを考えられたそうです。

「EVITA」舞台装置の平面図
4重の同心円によって構成された舞台は、盆の回転や装置の移動が入念に計算されている。

こうしたイメージは言葉として、ときには絵のように視覚的に浮かんでくるとのことですが、実際の「EVITA」の映像を観ると、場面が変わる「転換」の際に舞台装置が流れるように動き、舞台が全く止まることなく進行していることに驚かされます。回転する舞台中央の「盆」に付けられた傾斜一つ取っても、演者が支障なく踊れるよう打ち合わせた上で角度が作られるなど、土屋さんが冒頭で述べた「美術的な造形性のみではスタートせず、演劇的な造形性から発想を立ち上げる」という言葉の重さが伝わってくるようでした。




 「鹿鳴館」は三島由紀夫による戯曲で、明治19年の11月3日 天長節(天皇誕生日)に当時の迎賓館である鹿鳴館で催された大夜会を舞台に、親子や男女の複雑な人間関係と愛憎が描かれる悲劇として有名です。この作品も、これまでに様々な劇団と舞台美術家によって手掛けられて来ました。

第一幕の脚本・ト書きには、影山伯爵邸の茶室「潺湲亭」(せんかんてい)手前の場景が詳しく描写されています。かつての舞台美術家は、三島由紀夫が書いたト書きの通りに秋の日本庭園の風景を舞台に表していました。しかし、土屋さんはそうではなく、第一幕の舞台である潺湲亭の「潺湲」という言葉と、大徳寺侯爵夫人の娘・顕子による以下の台詞に着目しています。
悲しい気持ちの人だけが綺麗な景色を眺める資格があるのではなくて?
幸福な人には景色なんていらないんです。
「潺湲(せんかん)」という言葉を辞書で引くと「小川のさらさらと流れる様」と載っていますが、もう一つに「涙のはらはらと流れる様」という意味もあるそうです。土屋さんは、こうした三島由紀夫によるダブルミーニングの意図や、この戯曲の主人公である影山伯爵夫人・朝子の境遇(芸者から伯爵夫人へと自分を閉じ込めている環境)を顧慮した上で、「美しい景色は全て板絵の中に閉じ込める」という第一幕のデザインイメージを考えられています。
色々な原画を組み合わせて作られた『板絵』
美しい景色を板絵に塗り込めることで「朝子」という存在を表現している。
(潺湲亭を所有している朝子は実は不幸である)



 大夜会が開かれる鹿鳴館が舞台となる第三幕・第四幕の舞台美術についてのお話は特に印象深いものでした。1880年代、明治政府は欧米諸国に対して日本が近代化したことをアピールし、不平等条約の改正や国際的地位を高めようと欧化政策を進めています。鹿鳴館はその象徴ともいえる建物であり、外国から賓客を交えて西洋風の舞踏会や晩餐会が催されていました。しかし、実際に海外へ赴いた経験のあるごく一部の者を除いて、参加した人々の振舞いは上辺だけ真似たものであり、外国人の目には滑稽に映ったといわれています。当時、来日していたフランスの画家ジョルジュ・ビゴーは、鹿鳴館に集うこうした日本人を「鏡に映った猿」として風刺画に描いていますが、これは鹿鳴館の入り口にあった本物の鏡をモデルに描かれています。
ビゴーによる風刺画と、鹿鳴館の入り口に置かれていた本物の鏡
(現在は鹿鳴館を引き継いだ華族会館跡地である霞が関ビル36Fの華族会館で保管されている)

「鹿鳴館」劇中でも、影山伯爵夫人・朝子はかつての恋人である清原栄之輔に対し、自分の夫を暗殺するのを止めさせるために「滑稽だこと... 今夜、私はあなたの仰るその猿になります」とこれまで拒否していた洋装をして夜会に出席することを告げるシーンがあります。土屋さんはこれらを踏まえて、社会的評価としての鹿鳴館を括る「猿の鏡」の額を舞台全体に掛けるデザインイメージを考えられたそうです。
また、演出家からの唯一「重層的に捻じれた人間関係を舞台美術で表現してほしい」という要望を受けて、エッシャーの錯視のような効果を使いながら三重構造の床は全て湾曲しており、色々な人間が捻じれながら生きて行く様を舞台美術で表現されています。


第三幕・第四幕(上演第二幕)の舞台美術
ハの字状に映っている巨大な額縁が「猿の鏡」
舞台上のデザインエレメントは全て実際に鹿鳴館にあったもののみで構成されている。


 今回のレクチャーでは、この他にも「南十字星」「正岡子規」「誓いのコイン」などの作品についての解説をして頂きました。残念ながら、全ては紹介出来ませんでしたが、土屋さんの話された内容は、舞台美術や演劇だけの領域に留まらず、作品制作や研究をおこなう上でのプロセスや発想、そしてまさに表象(Representation)に通じるものであったと思います。

 また、今回は受講生以外にも、女子美の演劇部や立体アート専攻などからの聴講生が多数みられました。ミュージカル「CATS」についてお話を聞きたかったという声も多くありましたが、土屋さんいわく「CATS」は話し出すととても長くなってしまうとのことで、また次の機会にお聞きできたらと思います。みなさんもぜひ、土屋さんが手掛けた舞台を観に行ってみて下さい。